徒然なるままに、

ゆるく・気ままに日常を書けたらいいな

心配性ほど物が多い

あくまで自分の周りの人を見ていて思う。

 

様々なことを心配する人と

行き当たりばったりの人

両者を比べると、心配をする人の方が所有物が多い。

 

1つの視点のみで書くこと自体良くないのかも知れないが、このブログは昨今の少ないもので暮らすブーム(?)に便乗している。

 

もちろん自分も少ないもので暮らすよう心がけている。

 

自分自身では多くの物を管理しきれないと考えているし、衣類とかのリサイクルできるもので自分が使っていないものが自宅にあることを勿体ないと感じるから必要なもののみで暮らしたい。

 

そして、できることなら食品と燃料以外の買い物をしたくない。

 

こう思っていることに気付いたのはつい最近だ。

 

購買欲求は元々なかったから素質はあったのかも知れない。

 

いや、購買欲求は単にお金がなかったから諦めがつきやすかっただけなのかも。

 

いずれにせよ、家族や友人を見ていると昔から自分はあまり物を買っていないことに気付いた。

 

 

買い物はしないが、貰い物はよくした。

 

そしてよく保存していた。

 

以前どこかのブログで、必要のないのに保存されているオマケや付属品を「○カラシ」という単位で書いていたものを見た記憶がある。

 

この単位の素となった「カラシ」とは、納豆に付いてくるカラシを指すらしい。

 

確かに使わなくても保存している人はいる。

 

うちの実家は以前保存していた。

 

あの頃のカラシはほぼなくなっていたが、冷蔵庫の隙間等に変色したものがいくつか見つかった。

 

ちなみに自分は納豆のカラシを使うため、保存はしていない。

 

 

心配性な人は

「○○のときに○○がないと困る」

「○○のときには…」

と、様々な状況に対応するため物を多く持っていると感じた。

 

もちろん、先を考えることは悪いことではない。

 

そのために物を所有しようと考えることが自分の生活にとっては苦痛になる。

 

自分は以前、人と関わる仕事をしてきた。

 

「○○さんは何かを食べるとき、必ずおしぼりで手を拭いてからじゃないと食べない。」

「飲食店ならおしぼりは出してもらえるが、そうではない場合はどうする?」

ここで心配性な人は

「自分がおしぼりを持っておけばどこで食べたくなっても大丈夫」

と考えるのだろう。

 

自分の場合

「飲食店に入らなくても、コンビニで食べ物を買えば付けてくれる。」

「もし付け忘れていても近くのコンビニや売店でいくらでも置いてあるだろうからそこで貰ったり買ったりすればいい」

「『おしぼり』じゃないとダメなのか?

○○さんは手を清潔にしたいのではないのか?

手を清潔にしたいのならトイレの洗面台で手を洗えばいい」

と考える。

 

「おしぼりが欲しい」という状況になったらその場で対処すればいい。

 

 

こんな感じでいたため、物は増えずとも不便したことはない。

 

もちろん、例外はある。

 

その場合は個別対応していた。

 

仕事でこうしてその場で対処できるようになってきてから、私生活でも物が増えなくなった気がする。

 

当時は今ほど物を増やすことに意識を置いていなかったが、とくに不便をした覚えはない。

 

あと、若干手先が器用になった気がする。

 

数年前の自分では考えられなかった紙工作ができるようになったり、別の物を代用できるようになった。

 

 

自分はどちらかと言うと元は心配性だったと感じている。

 

今でも心配になり、手が覚束なくなることもある。

 

心配性かつ不安になりやすいみたいで、精神的な嘔吐が起こるときもある。

 

物を少なく持つことで少しずつ心配性を克服したのか

心配性がマシになってきたから物が少なくなったのか

今となってはどちらが先かは分からないものの、自分自身を変えるきっかけに物の少ない生活は一役買っているのかもしれない。