徒然なるままに、

ゆるく・気ままに日常を書けたらいいな

手放そう。話はそれからだ

先日より、約2年振りに実家で生活することになった。

 

とは言っても半年弱の生活だ。

 

今回はあまり出歩けないため、時間が長く感じる。

 

そんな中、実家の不要品の多さに疲弊している。

 

自宅は自分の物を手放しスッキリしているが、所有物の多い実家へ来たためだろうか。
・カウンターに並んだ紙
・時々雪崩を起こしていた紙袋
・終わった行事のチラシ
・本体を捨てた家電の説明書
・読んでいない雑誌の切り抜き
・ペットボトルのキャップ
・空き缶のプルタブ
・スーパーの袋
・賞味期限の切れた食品
・数十年着ていない服
・軽く10年は使っていないゲーム(64、スーファミ、初代プレステ)
・同じ用途で使いかけの洗剤類

 

こう書いてみると紙類が多いことに気付く。

 

自分が実家で暮らしていた頃、自分の部屋から45リットルのゴミ袋2つ分の紙袋が出てきた。

 

自分が溜めたのではなく、親が勝手に自分のクローゼットを物置にしていた。

 

他にも様々な親の詰め込んだ物が自分の部屋から出てきたが、自分が実家を出るときに大方手放した。

 

今回は実家に籠りがちなんで、少しでも快適にしたい。

 

 

手放そう。話はそれからだ。

 

 

でも何をどう手放したらいい?

 

そこで、断捨離の提唱者であるやましたひでこさんのページを閲覧した。

 

 

断捨離とは一言で言うと「モノの片づけを通して自分を知り、心の混沌を整理して人生を快適にする行動技術」ということになります。別の言い方をすると、家のガラクタを片づけることで、心のガラクタをも整理して、人生をご機嫌へと入れ替える方法。要するに、片づけを通して「見える世界」から「見えない世界」に働きかけていく。そのためにとる行動とは、

「断」=入ってくる要らないモノを断つ
「捨」=家にはびこるガラクタを捨てる

です。そして「断」と「捨」を繰り返した結果訪れる状態を、

「離」=モノへの執着から離れ、ゆとりある“自在”の空間にいる私

と定義づけます。
(https://yamashitahideko.com/profile/より)

 


つまり、
「断捨離」とひとまとめに考えるのではなく
「断+捨=離」と言うことなのか…

 

自分が食べ物以外買い物をほとんどしないし、ネットで物を買うこともないから「断」の部分は大丈夫だろう。


フリーペーパーや郵便物・レシート等の「ガラクタ」も即処理しているから無料のものも溜まらない。

 

実家では「捨」に重点を置く必要がある。

 

よし、ガラクタを捨てよう。

 

捨てるために計画を立てよう。

 

目標は7日で「捨」を完結させることにする。

 

 

行程
1日目…客間の引き出しの中、居間の作り付け収納の中

2日目…居間の作り付け収納の中、廊下
3日目…カウンターの上、1~2日目に行った引き出し・収納の上、パソコンスペース
4日目…洗面所の収納スペース、トイレの収納スペース、玄関
5日目…元自分の部屋(現物置)
※6日目…冷蔵庫・乾物庫の中

7日目…予備日

 

 

日によってばらつきがあるが、物の多さからするとこんな感じがちょうどいいと思う。

 

本当は家中の押し入れやクローゼット・調理器具も「捨」したいが、あくまで実家のため、個人のものは手をつけない。(むしろ上記の場所にあるものは所有者不明か所有者なしのものばかり)

 

食品を6日目にしているが、生ゴミなどが出る関係上ゴミの日の前日に行う。

 

作業日は自分以外の人がいない日(平日)9時~16時30分とする。(内まとめて1時間は休憩する。適宜水分補給を行う)

※16時30分にゴミをまとめるところまで完了させる

 

作業前後は画像を撮る(モチベーションを上げるため。個人情報の関係から画像upはしない予定)

 

判断に迷うものは家族に聞く(家にいないことも多いため、作業期間中でなくても良い)

 

ゴミ袋は分別のため、3つ(燃えるゴミ・プラスチックゴミ・燃えないゴミ)用意し、足りなければすぐに追加できるよう準備する。

 

(余力があれば)その日「捨」した場所を掃除する。

 

作業後は整頓する。

 


こんな感じで行いたい。

 

本当は実家ではゆっくりしたいと思っていたが、はっきり言ってそうはいかない。

 

ホコリも溜まっているため、断捨離の翌週は掃除を考えている。

 

ペットもいるからブラッシングしておきたい。

 

ホコリっぽいカーテンも洗いたい。

 

ジャングルみたいな庭の草むしりもしたい。

 

8月中に全てを終わらしたいが、かなりの作業量が予想される。

 


追記
やましたひでこさんのページを閲覧した際、プロフィールが書かれていた。

 

それによると現在、自分に関係のある地に住んでらっしゃった。

 

とすると、今まで気付いていないだけですれ違っていたかも知れない。

物に価値を見出さない生活

元々物にはこだわりは少なかった。

 

・服は肌の露出が少なく、寒色系なら良い。

・本は図書館や立ち読みで事足りる。

・書類は用が済んだら不定期に捨てていた。(一部を除く)

・アクセサリー類は1用途1つのみ。

・裁縫道具・工具・キッチン用品・消耗品も1種類1つのみ。

・文具は使えればどんなものでもいい。

・思い出の品は一部処分済み。

 

ざっとこんまりさんの片付けの順番に習って書いてみたが、こんな感じだからほとんど物は所有していない…と思っていた。

 

 

服に関して、自分で買うものはどれも同じようなものばかりだから親やきょうだいがお下がりをタンスによく突っ込んでいた。

 

また、セールで安くなっている時のみ自分でも冒険した色のTシャツを買うこともあった。

 

大抵そういったものは使われず、タンスの奥底に眠ったままになっていた。

 

たまたまセールで買ったカラシ色のTシャツは気に入り、生地が薄くなって下着が透けるまで着倒した。

 

配偶者と出会った頃はよく着ていたから、自分は黄色いTシャツを着ているイメージがあると聞いた。

 

このTシャツは最後、ウエスとして使い捨てた。

  

25歳のとき、実家を出るために荷造りしていたら

「何でこんなに服が多いのか」

「着ない服を運ぶ運賃がもったいない」

「第一着たい服がほとんどない」

と気付いた。

 

実家は貧乏なため、1つの物を長く使う生活が染み付いていた。

 

だが、当時の自分のタンスは使っていない物ばかりだった。

 

半袖・半ズボンはサイズからして恐らく小学生の頃にもらったものが出て来た。

 

自分は中学・高校はジャージで過ごし、大学以降半袖・半ズボンは身体上の都合で一切着なくなっていた。

 

捨てると親がタンスに突っ込みそうだったため、その日にまとめて近所の古着屋へ売った。

 

ここの古着屋は使えないものも資源として活用しているそうで、重さに応じて買い取りしていた。

 

こうして服は気に入ったもののみになった。

 

その後、職場でも職員のお下がりを押し付けられていたが、ネットの古着買い取りを利用して9割は手放している。

 

一応礼儀としてもらって2~3回は着てみるが、サイズが合わなさすぎて着られないものが多かった。(デブな職員だった)

 

その内、自分の中での服のこだわりも見えてきた。

 

・肌の露出が少ないもの(短くても七分丈・七分袖)

・寒色系(緑・ライトブルーは×)

 ※ただし、黒・白・灰色は○

・サイズはM~L(店舗による)

・プリントや刺繍が大きく入っている物は×

 ボーダーは好き

・上は体の線が出るもの、又はチュニック

・下は形より機能性重視

 

自分の中でこだわっていたことに気付いたのは26歳のときだった。

 

トップスの形に関してはまだ自分でも分かりきってはいないと感じている。

 

今年はチュニックばかり着ている。

 

 

本も25歳のときに仕事で必要なもの以外は手放した。

 

大学の教科書数冊くらいしか残っていなかったのでほとんどは捨てた。(書き込みも多かったから売れない)

 

仕事に就いてから、必要な本は買ったが退職時に同僚へ渡した。(同僚がほしいと言ったため)

 

片付けや掃除の本は25歳のときに図書館で見つけ、借りた。

 

こんまりさんの『人生がときめく片付けの魔法』を読んでからは手当たり次第片付けの本を読んだ。

 

現在、自分の本は3冊(内1冊は廃盤になっていて、仕事で使う可能性が高い本)のみだ。

 

配偶者と共有している本も6冊あるが、捨てないでいる。

 

 

書類は元々ファイルに整理することが好きだった。

 

家計簿に書くためにレシートをもらっているが、今月分以外処分している。

 

医療費関係は来年の確定申告で必要だから残している。

 

自分の物に関しては、取り扱い説明書や保証書(有効期限内の物は除く)関係は残っていない。

 

持っている書類は資格や免許の証明書と年金手帳、有効期限内のクーポン券、生命保険の証紙、スケジュール帳くらいだ。

 

 

アクセサリー類は元々興味がなく、仕事柄つけられなかったこともあり数を持っていない。

 

結婚指輪は常に身に付けているが、今後も増える予定はないため、現状維持すると思う。

 

 

裁縫道具・工具・キッチン用品・消耗品は壊れたりなくなってから買いに行くため、物が増えない。

 

ただ、今年の3月~5月の間にティッシュ5箱組を計4組もらったため、現在箱ティッシュバブルになっている。

 

 

文具にも特にこだわりがなかった。

 

だからこそ、たくさん入ってきた。

 

保険会社のボールペンはよく渡される。

 

他にも様々な文具をもらったことがある。

 

意外だったのは献血ポストイットをもらったときだ。

 

販促品の文具は溜め込みがちだから積極的に使っている。

 

ちなみにポケットティッシュもよくもらうが、もらう量と使う量が釣り合っているため溜まらない。

 

 

思い出の品は一部処分が済んでいる。

 

具体的には小中の卒業アルバムは捨てた。

 

思い出したくなかったし、成人式も行かなかったから二度と見ないと思った。

 

当時は後ろめたい気持ちになっていたが、ゆるりまいさんの『わたしのウチには、なんにもない』を見て改めて捨てて良かったと思えた。

 

高校・大学の卒業アルバムはまだ持っている。

 

というより実家に置いてある。

 

どうせ実家に置いてあるなら捨ててもいいと思っているが、配偶者に話すと悲しそうな目で見られる。

 

後は寄せ書きと結婚式の写真もあるが、まだ手をつけていない。

 

年賀状は10年くらいメールやLINEで済ませているため、紙のものは残っていない。

 

こんな感じだから現在自宅にある自分の物はストック以外かなり使っているものになっている。

 

実は今年、7月末~年末くらいまで実家で暮らす予定のため、実家の片付けと掃除をしようと模索中。

 

実家は築20年以上のため、いろんな物が出てきそうだ。

 

軽く棚の中を見るとヤバそうなものも見えた(気がする)

 

年単位で切れたものもありそうだから徹底的に片付けていきたいと考えている。

【紹介】24歳・26歳

自己紹介のような日記です。

 

25歳は7月24日に書いたため、省略します。

 

 

24歳

 

実家へ帰ると全ての家事が自分の役割になった。

 

ひとり暮らしをしていたため一通りはできたが、親と家事のやり方でよく衝突した。

 

家族との関係は良くなかった。

 

都合のいい家政婦くらいの扱いだった。

 

同時期にある資格の勉強をしたくなった。

 

その資格は地元では勉強できず、県外へ通う必要があった。

 

家事はしていたものの、バイトのため時間に余裕はある。

 

自分は家事とバイトをしながら勉強する道を選んだ。

 

同時に、バイト先で知り合った人から別の仕事(アルバイト)の誘いも受けた。

 

時間的に厳しかったが、頼りにされることが嬉しく了承した。

 

家事・バイト2つ・勉強と休む暇なく動いた。

 

そんな生活が続いたある日、バイト中に体調が悪くなった。

 

店長は自分の様子がおかしいと感じ、早く上がるようシフトを調整してくれた。

 

元々上がる予定の2時間ほど前にタイムカードを押して、退勤した。

 

その後、店の駐車場で倒れた。

  

そのまま病院へ行き、入院となった。

 

原因は不明。

 

いろいろと検査を受けたが異常なし。

 

過労と結論付けられた。

 

翌日退院。親には頭ごなしに怒られた。

 

親との関係は更に悪化した。

 

仕事のことで散々嫌味を言われていた。

 

学生の頃お世話になったカルチャースクールにもたまに顔を出すようになった。

 

相変わらず忙しかったが、家のこと以外不満はなかった。

 

この時期、仕事で料理を作っていたが、評判が悪かった。

 

実家で出されていた料理を作ればいいと言われたが、そもそもうちの実家は誰も食事を作らないことに気付いた。

 

また、後に分かったが、自分はどうやら味覚が鈍感なようだ。

 

食事は空腹を満たせばそれで良いとしか思っていなかった。

 

主菜・副菜がよく分からないし、未だに分かっていない。

 

空腹は感じるから食欲はある。

 

「何が」食べたいという考えがない。

 

結果、好きな食べ物も嫌いな食べ物も特にない。

 

強いて言えば米と漬け物はよく食べるが、特別好きな訳でもない。

 

そして、バイト先の先輩に恋をした。

 

この先輩は占いが好きで、自分と干支・星座・誕生月・血液型が一緒だった。

 

先輩自身の運勢をよく自分に話していただけだったが、同時に自分の運勢を知ることになった。

 

 

26歳

 

26歳になる10日前に婚約を受けた前後より、職員から執拗な口撃を受けていた。

 

元々この職員は過去にいろんな職場で新人を中心に口撃をしてきた人とのこと。

 

このときは自分が対象になった。

 

自分は結婚のために年度末にはこの地域から出ていくから気にしないようにした。

 

それで職員は付け上がり、自分の人間性を否定するようなことを言った。

  

この職員とは仕事以外で一切話さなくなった。

 

この年、職場は出入りが激しかった。

 

・上記の職員は数ヵ月後に解雇。(職員の補充なし)

・ベテランのパートが突如働けなくなり退職。(職員の補充なし)

・他のパートがケガをし、ドクターストップ。(職員の補充なし)

・別部門の人が家庭の都合で退職。(職員の補充なし)

・新しい職員は1人入った。

 ・年度末に自分も退職(職員の補充なし)

 

実は新しい職員は自分の大学の友人だ。

 

自分が働いていることを知るとここへ履歴書を送付してきた。

 

この人が自分の大学の友人なことを知ると、職員の口撃は更に激しさを増したがどうでもよかった。

 

それからは職場では自分の生活のことを話さなくなった。

 

同時に、この頃は汚れた自宅をどうにかしたいと考えていた。

 

生ゴミは処理していたが、全体的に雑然としていた。

 

口撃してきた職員に耐えていた頃、自宅に入ると乱雑さに窒息しそうになっていた。

 

ただでさえ職場で窒息しそうなのに、自宅ではくつろぎたいと遺品整理くらいの勢いで物を捨てた。

 

捨てた後はスッキリした。

 

また、年末にお米を10㎏もらえたりと運が少しついた気がした。

 

クリスマスと年末年始には婚約者と一緒に過ごせた。

 

今まで何人かと付き合ってきたがクリスマスを恋人と過ごしたことは初めてだった。

 

年明けは休暇を取って地元へ行く予定だったが妊娠が発覚した。

 

休暇初日に婚約者の家へ向かった。

  

その後、体調悪化で地元どころか職場への移動も困難なため退職した。

 

退職の際、移動できないくらい体調が悪いと上司に伝えたにも関わらず、無理にでも来いと言われた。

 

今だから言う。バカじゃないかと。

 

妊娠が発覚した際、上司には最悪職場に戻って来れない可能性を伝えてあった。

 

また、退職届を職場に戻ってこれない場合で作ったものを提出するよう上司に言われ、提出済みだった。

 

手続き上、自分は職場に戻ってこれない場合での退職を受理される用意をしてあった。

 

それも上司の指示で。

 

上司と話しても埒が明かないと考え、以降の事務手続きは事務員と直接連絡しあった。

 

その職場では、事務員が行っているから事務員と直接やり取りすることには何も言われなかった。

 

こうして有給明けと同時に退職し、翌日入籍した。

 

 

数日後、配偶者が自宅に残した自分の荷物を取りに行ってくれた。

 

物が少なかったから自宅到着後3時間ほどで荷造りが終わったとのことだった。

 

配偶者は何を処理したら良いか分からなかったから家電以外は全て持ってきたが、単身パック1つ分に収まっていた。

【紹介】22~23歳

自己紹介のような日記です。

 

ここから先は密度が濃いため、2年ごとに書いていきます。

 

 

22歳

 

ようやく地元を離れられた。

 

初めてのひとり暮らし、誰にも邪魔はされない。

…と思っていた。

 

しかし希望は打ち砕かれた。

 

補欠の登録をすれば100%働けるとは嘘だった。

 

悲しくなり、バイト先に報告をした。

 

店長がいた。

 

一通りの流れを店長に話したところで一言「ここで働くか?」

 

こうして自分はまたバイトを始めた。

 

月の給料は学生の頃の2倍ほどになった。

 

家族は文句を言っていたが、顔を会わすことがなかったため気にしなかった。

 

それよりも、ずっとバイトのままかという不安が大きかった。

 

バイトを再開して半年後、1本の電話がかかってきた。

 

県外のある場所から免許を使って1年半の期限付きで働かないかという連絡だった。

 

すぐにバイト先に報告したら、暖かく見送ってくれた。

 

今度こそ地元を出られる喜びが大きかった。

 

すぐに荷物をまとめ、実家を出た。

 

この年初めて、冬なのに雪を見なかった。

 

冬でも地元よりとても暖かく、過ごしやすかった。

 

 

23歳

 

仕事をし始めて半年が過ぎた。

 

体の不調が続いた。

 

それに伴いミスが目立つようになった。

 

作業も遅くなった。

 

なにかがおかしかった。

 

自分で考えてみた。

 

結果、詳細は省略するが自分は人を信用できなくなっていたようだ。

  

そして、1年半の期限が終了したと同時に退職した。

 

本当は期間の延長もできたようだが心が耐えられなかった。

 

退職後、自分はアルバイト先の店長に現在の状況を話した。

 

店長はまたバイトに誘ってくれた。

 

この店長に二度も救ってもらえたことに感謝し、また実家へ戻った。

 

このとき、実家へ帰るべきではなかったと今は後悔している。

【紹介】18~21歳

自己紹介のような日記大学生編です。

 

 

18歳 大1

 

高校と比べるととても自由だった。

 

サークルに2つ入ったが、バイトや講義でほぼ行かず、すぐに幽霊部員になった。

 

ただ、それぞれのサークルに属していたことで今でも付き合いのある同級生や先輩ができた。

 

それ以外でも仲良くなった同級生とは今でも何でも言い合える仲だ。

 

後期に入ると講義が増え、バイトもシフト的に入れなくなったため、バイト先を変えた。

 

このバイト先は半年ほどで閉店したが、バイト仲間とは2年くらい付き合いがあった。

 

更に、自治体のカルチャースクールも受けた。

 

このときの経験は今も役立っている。

 

 

19歳 大2

 

ある免許を取るための講義が始まり、ますます講義が多くなった。

 

元々2つの資格が取得できる学科だったこともあり、自分の学科で免許を取ろうとしたのは自分だけだった。

 

レポートの課題もかなり出ていたため、脱落者も多かった。

 

また、バイトも新しく始めた。

 

このバイト先はとても長いことお世話になるとは思いもしなかった。

 

カルチャースクールでの繋がりも継続中だった。

 

自分の親くらいの年齢の人に混じり活動した。

 

カルチャースクールの人は面倒見の良い人が多く、とても居心地が良かった。

 

学校・バイト・カルチャースクールの活動と忙しかったが、自分で決められる自由が嬉しくて何の不満もなかった。

 

 

20歳 大3

 

講義の数は更に増え、週25コマ中23コマは講義に出ていた。

 

相変わらずバイトもカルチャースクールの活動も行っていた。

 

講義でのストレスをバイトにぶつけ、カルチャースクールの活動で癒されていた生活だった。

 

そして、就職のことを考える必要が出た。

 

地元に居る気はなかった。

 

考えた結果、親戚のいる県外への就職を希望した。

 

仕事は、大学で取得する免許を使って働けば二度と地元に戻らなくていいと考えた。

 

ここから就職試験のための勉強を始めた。

 

このときが人生で一番勉強した時期だった。

 

大好きなバイトも店長に就職が決まるまで休みたいと伝えたら快く了承してくれた。

 

 

21歳 大4

 

前期は実習や就職試験の関係でほぼ大学へ行っていない。

 

就職試験は一次は受かったが、二次で落とされた。

 

そこで、補欠者が出たときの補充の登録をした。

 

ここに登録をすれば100%働けると大学教授に言われ、信用して就活を終えた。

 

そして、バイトに復帰した。

 

とても楽しかった。

 

自分がいない間に新人が入ったが、どうやら店長と社員はそのバイトの子が好きだったようだ。

 

自分はなんとも思っていなかったが、今どきの感じだった。

 

大学卒業時、バイト先に礼を言い、カルチャースクールの人達にも就職の報告をし、地元を出た…はずだった。

 

【紹介】15~17歳

自己紹介のような日記高校生編です。

 

 

15歳 高1

 

行きたいとも思わなかった高校で、やりたいとも思わなかった部活の毎日。

 

朝が弱いため、朝練が辛かった。

 

また、体も成長して体重が標準くらいまで増えていた。

 

陸上は中学までと思っていたから部活を辞めた後、暴飲暴食をした結果だ。

 

まずは痩せることから始まった。

 

一時期は入学時より10㎏ほど痩せた。

 

この頃は太ももが膝より細かった。

 

無理に体重を落としたため、体に大きな負担がかかっていた。

 

 

16歳 高2

 

後輩が入った。

 

幸い同じ中学から来た後輩はいなかったが、中学で起きた事の影響で信用できなかった。

 

自暴自棄になった。

 

自分なんかどうでもいいと思え食べまくり、そして吐いた。

 

異が小さくなっていたため、大量の食べ物を受け付けなかった。

 

体重が増え、気がつくと10㎏戻った。

 

更に自己嫌悪し、負の循環に陥った。

 

この頃からよく海に行くようになった。

 

潮風や波の音が心地よく、唯一自分を受け止めてくれている気がした。

 

だが、親から禁止された。

 

自分はケータイも持たず、夜中にフラフラと海に行っていたため、親が心配したのだろうと思う。

 

心の拠り所がなくなった自分は出会い系に手を染めた。

 

ただ必要とされたかった。

 

何をされても部活と比べればマシだった。

 

それも長くは続かず、更には学校にまでバレ、親にケータイを取り上げられた。

 

そうすると次は部活を辞めたい思いが強くなった。

 

ただでさえやりたくなかった部活。

 

校則の他に部則があり、自由になれない感覚が強かった。

 

何度も親や顧問に辞めたいと話したが聞き入れられず、そのまま続けることになった。

 

 

17歳 高3

 

5月で辞めようと思っていたが、強制的に11月まで続けさせられた。

 

また、進学のことも考え始めた。

 

自分は大学に行きたいと考えていた。

 

家庭の経済状況を考え、できれば県内の国公立と思ったが、特に勉強したい分野はなかった。

 

自分は何をしたいのか?初めて本気で考えた。

 

今までは流れに任せて来たから、嫌な思いをしてきた。

 

それなら今回は自分が選択できる範囲内で最良のものを選択したいと思った。

 

考えた結果、後に母校となる某大学への進学を希望した。

 

部活が11月まであるため、入試に時間は割けないと思った。

 

なんとかして校内推薦をもぎ取り、推薦入試を受けられた。

 

11月に部活を辞め、受験も合格し、12月からは学費稼ぎのためバイトを始めた。

 

部活を辞めた後は毎日のようにバイトをしていたが、部活よりもずっと楽しかった。

【紹介】12~14歳

自己紹介のような日記中学生編です。

 

 

12歳 中1

 

地元の中学に入学。

 

自分の通っていた小学校と別の小学校1校の人が同じ中学の範囲内だった。 

 

当時の文科省で認められている最大の人数のクラスだった。

  

この年、1年で20㎝以上身長が伸びたことで平均的な身長になった。

 

入学時に買った制服はすぐ小さくなったが、金銭的理由で買い替えられなかった。

 

卒業まで短い制服を着続けた。

 

部活は最初、バスケ部に入った。

 

自分としては陸上部に入りたかったが、親からの反対に遭い、仕方なく入った。

 

最初の練習は校庭20周から始まった。

 

走るのは好きだったため、苦にならなかった。

 

それと同時に、陸上部に羨ましさを感じていた。

 

バスケ部では体が小さいことで、ディフェンスの練習でよく吹っ飛ばされていた。

 

ある日、バスケ部と陸上部合同練習が行われた。

 

陸上部の長距離専門の人の後ろに何周まで付いていけるかを見られた。

 

他の部員が続々と落第していく中、自分と同学年のバスケ部エースのみ付いていけた。

 

バスケ部顧問は自分がそんなに走れることを知らず、驚いていた。

 

後々分かったが、この日の部活は駅伝の補充選手候補を選ぶ目的もあった。

 

陸上部顧問は自分のことをいろいろと聞いてきた。

 

バスケ部は人数が多く、練習試合も出たことがないと伝えると、勧誘された。

 

駅伝大会までは陸上部と一緒に練習し、大会後に転部した。

 

 

13歳 中2

 

後輩が入ってきた。

 

きょうだいがいた関係で自分のことを知っていた後輩からは急激に身長が伸びたことを気持ち悪く思われていた。

 

また、同級生が1人転部してきた。

 

今で言うウェーイ系の人だ。

 

元々陸上部はウェーイ系が多かったため、転部してきた人はすぐに馴染んだ。

 

自分は部員とは部員以上でも以下でもない立場だったが、どんどん孤立した。

 

 

7月、部活終わりに居残り、帰宅途中に突如羽交い締めにされ、近くの団地へ連れていかれた。

 

ただただ驚き、何も抵抗できなかった。

 

コンクリートに頭を押し付けられた。

 

相手の顔が見えた。部員と後輩だった。

 

そこからの記憶は曖昧だ。

 

今でも体にはそのときに負った傷が数ヶ所ガッツリと残っている。

 

見る人が見たらヤンチャしていた証拠ともとれるような傷跡だ。

 

以降、自分は傷跡を隠すため肌を隠す服を着るようになった。

 

 

14歳 中3

 

中2の件以降、地元から離れたい気持ちが出た。

 

しかし、これと言ってどこに行きたいとかはない。

 

自分の実家は徒歩1分のところに高校がある。

 

行く気はなかったが、他校の滑り止めとしてこの高校を受験し、合格した。

 

翌日、高校から入試の成績が優良だったため他校を受験せず入学した場合、高校3年間の授業料を全額免除するという手紙が届いた。

 

他校を受けたいとは思っていたが行きたいところもなく、家庭の経済状況も考え、この高校への入学を決めた。

 

このとき、陸上は中学で辞めようと考えていたが、何故か中学の陸上部顧問が高校の陸上部顧問に自分のことをよろしくと頼んだようで、高校では強制的に陸上部への入部が決まった。